ファランクス
-首都防衛戦-
10. 海兵隊合流<六・一六>
(I)従兵
佐祐理は声をはり上げて父の名を呼んだ。
「誠四郎様」
返事はなく、風だけが吠えた。
月もない深夜だというのに、外は明るかった。
空はところどころ不気味なほど白んでいる。
佐祐理は異変を感じた。
もう返事を待って居られぬと思った。
手早く寝所の幕を引き上げ、小さな体を滑り込ませる。
寝所に父の姿はなく、乱れた布団に手を当てる。
まだ温かい。父が寝所から離れてさほど時が経っていない。
辺りを見回した。
父、誠四郎の寝所はイリテオウ川、コウナゴ川という二大河川に挟まれた広大な中洲にあった。
イリテオウ川、コウナゴ川は二路湾に流れこむ。
戦争前までは二路湾の港「二路港」は月丘第二艦隊の母港だったが、北華第二集団による封鎖作戦によって完全に干上がった。
二路港は機能不全を起こし、月丘第二艦隊は沈黙したまま拿捕されてしまった。
二路港が北華の手に落ちたことから、月丘国内の物流に大きな支障をきたしていた。
誠四郎の寝所は北華第二集団の陣の中心部に位置していた。
陣は大きく三つに分かれている。
誠四郎らがいる本陣、水路上での物流を担う海軍移動倉庫、従軍商人らのブロック。
そのうち海軍移動倉庫、従軍商人ブロックは夜出歩くには距離が離れすぎている。
父はどこに行ったのか?
佐祐理は身支度すると、雨合羽を羽織った。
すでに雨はかなり激しく降り続けており、イリテオウ、コウナゴ両川の水かさが増えいていることは、音で分かった。
寝所に叩きつける雨の音は激しい。
父の居場所とあわせて、嵐の様子も知りたい。
父を探すついでに、陣所内の様子を見に行って見ることにした。
風も雨も強い。
寝所を出た。息ができないほどの雨滴が顔をたたきつけ、風にまかれて足を取られそうだ。
巻いた横風に殴りつけられ、足元がよろめく。
腹ばいになって進みたいと思った。
寝所は本陣の中心にあるので、父の行きそうなところへ手当たり次第訪ねてみるしかなかった。
将官宿舎まで数十メートルほど離れていたが、その数十メートルが何百メートルにも思えた。
将官宿舎には雨合羽姿の兵士が身を震わせながら歩哨に立っていた。
佐祐理を見つけた兵が、声をかけてくる。
「総司令の従兵だね。どうしてるかと案じていたんだが、こう雨がひどくては見に行っている間もなくてな」
誠四郎の従兵をしている佐祐理は、傍目には少年にしか見えない。
部隊では誠四郎と同じく栗毛色の髪をした美少年として認知されているため、兵卒の中で佐祐理の姿を見知っている者が多かった。
その兵士も常に誠四郎の傍らにいた佐祐理をよく見かけており、立ち話をするくらいの仲ではあった。
佐祐理は、わたしは大丈夫だという風に手を泳がせた。
「寒いだろうに、こっちに来たらどうだい。ひとりじゃ不安だろう。みんな中で火を囲んでいるよ」
「司令官を見なかった?」
「いや、こっちには来てなかったな。この嵐にまた見回りかい」
「ええ。遠くには行ってないはずですが、心配ですから」
「いいねえ。部下に愛されているねえ」
「では私はこれで」
うんうん、とうなづく兵との会話を切り上げ、次の場所へ向かおうと踵を返そうとした。
「ちょっと待ってくれ。一つ頼まれてくれないか」
制止の声に、佐祐理は足を止め、再び向き直った。
「相沢中尉を見つけたら戻るように伝えてくれ。牟田口中尉が呼んでるんだ」
「わかりました。また貸し一つですよ、川澄さん」
佐祐理はニヤリと子供らしくない笑を浮かべる。
「まったく悪ガキだな。大人に恩を売りつけるのはどうかと思うよ。うちの娘と同い年なのに」
「おや川澄さん。娘さんがいたんですか。その顔で奥さんがいたことが驚きですよ」
「ひどいな君は。さっさと司令官殿を探しに行きなさい」
兵は手で佐祐理を追い払う仕草をした。
佐祐理は引き際だな、と思い再び踵を返した。
相変わらず雨がひどい。次の場所は倉庫がある、盛り上がった土置き場だ。
父は高所から本陣を見渡せるのでその場所を好いていた。
では、竜を使って見わたせばいいじゃない、と言ったら地面から足が離れている不安定さが嫌だと渋った。
翌日から父の代わりに本陣の上空を飛ぶ竜の数が増えた。
父曰く、操竜士と魔導師を一組にしたらしい。重量が増えて速度が落ちたので、数を増やしたと言っていた。
佐祐理の目の前で、男たちが土のうを兵営に向かって運んでいた。
兵営に水が流れこむのを防ごうというものだ。
工兵が忙しなく動いている。
「もう水が来ているのですか……」
思わず口走ると、どなり返された。
「水位が上がってるんだ。ここより低いところには決して近づくな!
そこの従卒! そっちの道は水が来るぞ。溺れたくなかったら迂回しろ!」
佐祐理が進もうとしていた道は土のうで遮断されていた。
土のうの壁が並び、低いところに落ちるよう溢れんとする水の流れを変えようとしていた。
佐祐理は弾かれるようにして、足を止めた。
「兵を避難させた方がよくないですか?」
工兵は首をかしげた。
「どこに?」
工兵は続ける。
「地元の住民に聞いたら、これでも冠水する程度だそうだ。
濁流が大人を飲み込むほどじゃない。この土地は水はけがいいんだよ。
だから水が下に流れ落ちるようにするんだ」
「こっちは危険だ。早く兵営に帰れ」
と、別の兵が言った。
「司令官と相沢中尉を見かけませんでしたか?」
雨風に負けまいと大声で話す佐祐理に、工兵の一人が顎で指した。
倉庫がある高台。
「ありがとうございますっ!」
佐祐理は礼を言うと、彼らを背にして迂回路の中でも高台を進む険しい道を選んだ。
佐祐理たち第二集団は慣れぬ土地で水の猛威に悩まされていた。
海軍の水上部隊は雨の日に船を出すことができず、物資輸送のスケジュールに狂いが生じていた。
第二集団の中にも海軍の兵士がいる。
竜と操竜士と魔導師は陸軍にもいて、陸軍航空偵察隊として組み込まれている。
が、空戦魔導師はそうはいかない。
空戦魔導師は海軍にしか存在しない。
六号街道の戦訓から歩兵を展開するためには制空権の奪取が必須となっている。
多くの空戦魔導師が第二集団の中にいる。
移動倉庫隊も海軍だ。
背後に議会の力を持つ誠四郎の要請に海軍は誠意をもって応えようとしたが、土地勘がなく異なる天候に苦労していた。
天測技師たちがデータを収集しているが、今次の戦争には間に合わない見通しだ。
敵は人にあらず、自然にあり。
さほど抵抗もなく進撃を続けることに、誰とも言わず口にした言葉だ。
佐祐理は道を急いだ。
雨は激しいままだ。
途中、風雨の中で二度三度振り返って工兵たちがいた場所を見た。
暗くて姿が見えない。
風の中に怒号が聞こえたような気がした。
果たして間に合うだろうか。
冠水程度とは言ったが、兵営に入り込み、移動倉庫へ水が溢れ出してこないだろうか。
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