いつのまにか暗雲立ちこめる空。
急激に悪化する天候が、ヒバリの行き着く先を暗示しているかのようである。
ぬかるんだ地面に足を取られて顔から倒れ込み、ワンピースに麦わら帽子、それどころか全身が泥まみれとなる。
起き上がりざまに麦わら帽子をひっつかみ、地面を強く蹴ってヒバリの身体に覆い被さっていた。
泥だらけの土を踏みしめる音。
ゆっくり、ゆっくり、距離を詰めてくる。
既に月は厚い帳の向こうへ隠れ、闇を照らすのはフェイトが放つ金色の魔力光に他ならない。
赤、青、桜など様々な色の光が空を賑わせたが、残っているのは彼女の金色と、光をまとわぬ暗黒。
「そこからどくんだ。私はその傀儡兵を壊す」
赤色の瞳がジルと、動かなくなった機械を見下ろした。
「違法兵器は取り締まらなくちゃならない。任務なんだ」
「いやだ」
ジルはしがみつきながら言った。
「どくんだ」
「いやだ」
ジルが、怒りのこもった目で見返す。
「どかなきゃだめだ」
「ぜったいにいやだ。どいたら、さっきの、エクゼみたいに、殺してしまうんだ! だからどくもんか!」
「殺したりなんかしない。壊すだけだ。さあ、けがするから」
いっそう強くしがみつく。
フェイトが手を伸ばして無理矢理引きはがそうとしたが、邪険に手を払って抗った。
さらにはライプニッツを振り回し、強かにフェイトの手を打ち付けた。
「っ!」
フェイトが驚いて手を引っ込める。
強い拒絶の意思だった。
ジルの怒りを目の当たりにしたにもかかわらず、フェイトはもう一度手を伸ばそうとした。
「さわるな」
鋭い言葉にとまどい、手を止めた。
「エクゼを殺した手で、ボクに、ヒバリにさわるな。どうせ、その手でヒバリも殺すんだ!」
噛みつかんばかりに言う。
ジルは怒りのまま、ライプニッツを振りかざす。
ジルの魔力量は、報告を受けた傀儡兵のどれよりも優れていた。
魔力量だけならフェイトにも手が届く。
攻撃される。フェイトは小さな手に青筋が浮くのを見て、反射的にライプニッツを叩き払っていた。
ジルの視線が、弾き飛ばされて水たまりに飛び込んだライプニッツへと向けられた。
すかさずフェイトがバインドを放つ。
金色の拘束魔法が少女の身体にとりつき、締め付けた。
ジルの口から苦悶の声が上がったとき、フェイトは地響きに似た異音を耳にして飛び退った。
機械の腕が二人の間に割って入ると、仕込み刀がフェイトの目前で弧を描いて飛び跳ね、淡い青色の灯火が浮かび上がった。
地に足をつけたフェイトは再び接近しようと前に出て、バルディッシュを上段に振りかぶる。
青い目が光を取り戻していく。
気力を振りしぼって起き上がろうとする傀儡兵を見据え、バインドに手をかけた右腕を狙って切り下ろした。
だが、刃先に抵抗を覚えた。機械の右腕が翻って刃をつかんでいたのだ。
驚きながらも押し切ろうとするが、傀儡兵が巨体を起こすに至って、フェイトは徐々に後方へ押しやられていった。
魔力を込めているにもかかわらず、手応えがない。
しかし、目前の傀儡兵には幾ばくかの魔力しか感じられなかった。
なのはとの戦闘が尾を引いているのは明らかだった。
左腕はジルを抱え、右腕は武器を握りしめて離さなかった。
バルディッシュは異常を感じた。
傀儡兵に掴まれた瞬間から、魔力の変換ができなくなったのだ。
形を為さなくなった魔力が霧散し、無効化されている。
変換効率ゼロ。こうなっては魔導師とて、ただの人である。
非力な子供が真正面から武器を振るっても、巨人の豪腕にはかなわない。
バルディッシュを左右に揺さぶり、力のかぎり投げ飛ばした。
傀儡兵は踵を返し、泥水に浮かぶライプニッツへと走り、白い蒸気をまとう右手で拾い上げる。
そして脇目もふらず駆け去った。
■
「ヒバリ、ヒバリ、やっぱり大丈夫だったんだ」
ジルは機械の腕の中で、首を曲げながらうれしそうに言った。
だが、返事はなかった。
ヒバリは全身から火を噴いたような痛みに襲われていた。
目覚めたときとは比べものにならない激痛。全ての神経に針を差し込まれた、耐え難い苦痛。
少しでも気を抜けば気を失ってしまう。
リアクターによって強制的に覚醒しているに過ぎなかった。
背後に迫り来るフェイトの気配に怯えながら逃げていた。
足を止めれば追いつかれる。
絶対に捕まってはいけない。
今はまだ、管理局の厄介になってはいけない。
今の形ではおじいさまが迷惑を被る。
ましてジルの両親やレミングス、ガースクウェイクにも類が及ぶに違いない。
目の前が闇色に染まる。
ジルが転送魔法を使ったのだと気づいたとき、フェイトの気配が遠のいていた。
うっすらと威圧感に肌を刺すだけだった。
そして視界が再び闇色に覆われる。
何度も、何度も、繰り返された。転送の度に周囲の風景が変わった。
転送前とさほど変わらない森の中だったが、ジルが何かを見つけたらしく突然叫びだした。
「止まって!」
川縁に身を乗り出すようにして伸びた幹の下で、長い髪の女が岩にもたれかかって座り込んでいたのだ。
肩口を押さえながら荒い息を吐き、目の前で止まった巨体に気がつく。
「……あ」
ゆっくり顔を上げると、力ない声音を漏らした。
彼女は、大小を問わず全身の至る所に傷を負っていた。
ヒバリには、もはや考える気力が残っておらず、彼女が誰なのか分からなかった。
身をよじって腕から抜けたジルが、川面に飛び降り、たどたどしい足取りで女に駆け寄っても、全く気がつかなかった。
「アリスだ、アリスだよ。擬態してるんだ!」
アリス……アリスって誰だっけ。
ヒバリは遠のきかける意識を、必死でつなぎ止めながらぼんやりと呟いていた。
フェイトの気配がわずかに動くと、金色の鎖を目に留めた。
右手でつかみ取って難なく外し、ライプニッツを押しつけた。
結合を失った魔力が闇に溶ける。
「良かった――って、何するのっ」
ジルの悲鳴混じりな声が耳朶を打つ。
だが、ヒバリには何を言っているのか、ほとんど聞き取れなかった。
心臓の鼓動と、自分の息遣いしか聞こえない。
ジルの、アリスを助け起こそうとする姿は目に入らず、光を求めて首を回した。
すると、水の粒が頬を打った。ひとつ、ふたつ、三つ――たくさん降り注ぐ。
雨が降ってきた。それも、季節外れな土砂降りの雨。
「っと、また、何、すっ」
ヒバリは二人《・・》を抱え上げて走り出した。
腕の中でジルが抵抗するので、少し強めに力を込めた。
雨宿りできそうな、格好の隠れ家となる場所を求めて足を早めた。
どれだけ時間が経ったのか、どれだけ走ったのか。
雨はいっこうに止む気配がない。
冷たい雨粒に打たれ、身体から熱を奪っていく。
アリスの顔は青ざめており、出血もあってか、ぐったりとしたまま動かない。
唯一元気なのはジルだけで、走りをやめないヒバリに声をかけても、返事を得ることはできなかった。
ヒバリの意識は、とうに失われていた。
リアクターは彼女の命令を遂行していた。
魔力光以外の明かりを求める、ヒバリの思いを忠実に実行していただけである。
闇雲に走っているわけではない。
探知魔法を使えば管理局に気取られてしまうため、ゲートへ侵入した際に持ち帰った地図情報を頼りに、現在位置を算出し人里離れた民家を探し出す。
ジルが明かりを見つけたのは偶然ではなかった。
森の中にひっそりと豪邸が建っている。
建物内にはいくつかの熱源。
人が住んでいるかもしれなかったが、この際どうでもよかった。
ヒバリやアリスは、誰かの助けを借りなければならないほど衰弱しているのだ。
ジルですら頼りになるとは言えない。
元気そうにしている彼女は、自分で考えている以上に疲労していた。
緊張の糸が切れる前に保護を求めなければならない。
リアクターは豪邸の広大な庭を目的地と定め、巨体を跳躍させた。
空の中にいる――開放感を覚えた途端、着地の振動に身体を揺さぶられた。
大きな音を立て、静まりかえっていた建物の一室に明かりが灯った。
リアクターはそれを確認した後、傀儡兵を膝を地面につけて二人を下ろした。
ジルはしっかりとした足取りで降りたが、もうひとりは力なくうつ伏せに崩れ落ち、数秒待ったが起きる気配はなかったので、指先で転がして仰向けにする。
建物内の熱源が動いた。
部屋を出て、階下へ降りると、もう一体の熱源と一緒に行動する。
かれらに気づいたのはリアクターだけである。
しかし、リアクターには伝える術はない。
伝える必要はなかった。異音に気づいたかれらが、ヒバリたちを見つけるだろうと、予測したリアクターは除装し、待機状態へと移行した。
淡い青色の粒子となったデバイスはペンダントに形を変え、膝立ちになったヒバリが残された。
意識を失った身体は、ジルに覆い被さるようにして倒れ込むと、下敷きとなった少女から幼い悲鳴が響き渡った。
■
風が窓ガラスを叩き、うなり声をあげてざわめいた。
沛然たる雨音に、寝入っていたアリサは目を覚ました。
寝間着のままベッドから降りて窓の傍に歩み寄って、カーテンの裾をたくし上げた。
まぶたをこすりながら外をのぞけば、土砂降りの雨が降り注いでいた。
「降りすぎよー。雪が全部流されちゃうじゃない」
今朝の予報では一月にしては温暖で雨か、みぞれか、降水確率は三〇%と報じていた。
庭を見やると、わずかに残っていた雪はどこにもなかった。
アリサは大きなあくびをしてから再びまぶたをこすると、不意に青い光を目にした。
森の中から、ぼぅ、と浮かび上がった鬼火に目を丸くして身を強ばらせた。
「ひっ……」
走っているのか、かなりの速度で近づいてくる。
アリサの家に向かってまっすぐ向かってくる。
「人魂――!?」
驚きのあまり指を離してしまった。
視界を覆い尽くしたカーテンが、ゆらゆら揺れる。
雨音に混ざって放し飼いの犬が吠えている。
犬の声は止むことなく続いた。
「そんなわけないじゃない。気のせい、気のせい」
ため息を吐き、から笑いをする。
気を取り直して、少しだけカーテンを引く――と、青い光をはっきり目にしたのである。
「やっぱりいたっ!」
その上、目が合った。
続いて、何か《・・》が落ちた。
墜落音が聞こえ、辺りが静まりかえった。
張り詰めた静寂に支配され、アリサがおそるおそる顔を窓に近づける。
一瞬だけ人間の姿が映った。
カーテンから乱暴に手を離すと、そのまま踵を返して部屋の明かりをつけ、クローゼットからコートを取り出して身にまとった。
机の中から懐中電灯を取りだし部屋を飛び出して、階段を駆け下りながら鮫島を呼んだ。
玄関へ行き、傘をつかんで扉の鍵を開ける。
「アリサお嬢様。さっきの音は……」
「庭よ。庭に何かが落ちてきた」
扉を押し開き、傘を差すなり雨の中に飛び出した。
「待ちなさい、アリサお嬢様! まずは、私が見に」
そう言ったところでアリサが立ち止まるわけはなかった。
鮫島も傘をつかんでアリサの後を追った。
犬の声を頼りに進んでいくと、突然悲鳴を聞いた。
アリサが上げたと思った鮫島は、すぐに彼女を見つけた。
振り返って鮫島を見つけるなり、「あっちから声がしたわ」と、悲鳴の方角を指差した。
「ここにいて下さい。私が見てきます」
「ちょ、ちょっと、あたしも行く」
今度はアリサが鮫島の後を追った。
程なくして二人の前に、吠え立てる犬と途方に暮れて立ちつくす少女の姿があった。
少女の前には、二人の人間が倒れていた。動き出す気配はない。
懐中電灯の光に気づいた少女が振り返りアリサと鮫島を認めると、青ざめた唇を震わせた。
「あっ」
少女には目立った外傷を見つけられなかった。
しかし、倒れた二人のうち長髪の女は別である。
左肩に、鋭利な刃物で切り裂かれたとしか考えられない傷があった。
おびただしい出血。顔に生気はなかった。
手早く応急処置する鮫島。
「鮫島、救急車」
「だめっ!」
突然叫ばれて、アリサが身を震わせた。
「病院は、だめ……」
駆け寄ったアリサの腕の中で、少女は糸が切れた人形のように気を失った。
記
今回のroutは敗走の意味で用いました。
鮫島の、アリサの呼称は合ってますか? 記憶があやふやなので間違っていたら修正します。
やっと一段落です。
エクゼが破壊される瞬間を目の当たりにしたジルが、フェイトに対してあれぐらいの言動は仕方ないはずです。
あと、いくつか伏線を張っています。
次回はinvadorになる予定。
二〇〇七年一月二〇日 流鳴
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